2014年5月20日火曜日

酒の味

二十歳になってからすぐ飲みはじみたウイスキーを、未だにうまいと感じるわけでもないのに、毎日のように飲んでいる。
忘年会の席で、ビールっていつ頃からうまく感じるのかと聞いたことがある。その人は酒は味わうものではなく、楽しむものだと言った。人と人とでたのしく飲むものだと。

しかし、私がシングルモルトスコッチに手を出したのは、味わう酒だとおもったからだ。数多くの蒸留所ごとにボトリングされるスコッチは、その多様な環境ごとの個性豊かな、味や香りを選ぶことができる。

ふたを開けてみれば、たしかに豊かな香りを感じ、口に含めば、強いアルコールの刺激にかき消されてしまうまでのほんの少しの間に、微かな甘みとモルトを感じる。
ただ、これをうまいと言われてもピンとこない。
香りについては良さがわかる気がするが、味は・・・。

どうやって味とそれとが結びついたのかわからない比喩や、売り文句的誇張に、私の貧しい心は惹かれてしまったのだろう。どこにでも人はいる。酒を作り、売るのもまた人だ。孤独に楽しめる酒などないのだろう。あるとしても、それを楽しむには文化や人と、日常的に深く触れていて、内面からもそれらがあふれてくるような、そんな人が、すこし離れた所で飲むことによって感じることができるようなものでしかないのだろう。

心開く友人もいなければ、開く心もないような日々に飲む酒は、味けないが香り高い。

2014年5月18日日曜日

書くために書く

それすら、書けない。
何を気にしてるかというと、書いているうちに単語、いいまわし、リズムなんかが気になって、書き換える間に書こうと思っていたことと、まるでちがってくる。
何を書きたいかということを考えてから、始めないからというのも大きい。考えながら、その徒然を書いていきたいわけだけど、、、あー 思考ってわりと雑然としてるから、それを描写しても、ちゃんとごちゃごちゃしてる文になるのは当たり前だった。
それを繰り返していくと、いくらか形になっていくんでしょうな。その形に。

思考言語と視覚的な文字としての言語ではちがいがある。
思考というのは、とても自分的で、飛躍もイメージバインドもお手の物。自分に閉じがちで、共有するつもりもないから、それをそのまま文字にしても辞書とは剥離しがち。
文字はその逆。他人との通信プロトコルとしての役割が本質。
という訳でもないのが現実で、その思考言語だって、通信プロトコルを内に抱えたのが始まりだし、文字だって、共有目的で使われることばかりじゃない。

序破急、起承転結、論理的筋立て。
物語でもなければ、理論作りでもないただの文字列をそんなフォーマットでまとめなくてもいいし、仕様も知らないし。

徒然としてるようで散文的な。
句読点の半分は諦めがにじむ。

可逆的な文にあこがれるが、書き心地を優先するとこうなる。タイピングの遅延と語彙のなさからくるストレスは、恥をよけて進むように文字を仕向ける。
それもそれで、その形。ただ厨二病的な当時を思い出す。
そんな形。

2014年5月15日木曜日

三日坊主も丸坊主

続かないといえば、筋トレ、ストレッチ、英語学習、瞑想、読書などなど。そこにこれ。数えだせばキリがないのだけど、それは続いていることもそうなのだろう。じゃあ、なにが続いているのかといえば、注意散漫、足りない頭、日常。
継続は力なり、その連続性の中にそれを否定するそれ自身。

私の思考の歴史は浅い。外的ストレスに当てられ、それを解体するために始まった。
それの構成要素は、それを否定するものだった。
それが最初。
その否定の中身をひらけば、それとそれじゃないもの。
またそれを開けば。じゃあ、あてにならないよね。
空っぽいなと当時は思った。今思えば、上記の様に。
ようは覚えてない。

重要なのはストレスとやらは、ちゃんと解体され撤去されたこと。その思考廃棄物は心を劣悪な環境にしてしまった。それも2、3年で十分きれいになって、どうじに思考の必要性もなくなってしまったようで。
考え方を思い出して、今に適用してみてもどうもイマイチ。
まあ、当時の自分には新鮮だったのだろうけど、すっかり慣れて血肉になっているのだろう。
誤解しか生まない程度に言うと、ソシュール、ヴィドゲシュタイン、ニーチェ、釈迦、ラッセルの美味しい部分の思想体験をしていた感じ。あんだけ苦しんでひねり出したものを、先人たちはわざわざ他人一般に理解できるように推敲して本にまでしてくれているのだからすばらしいもので。教養の偉大さを感じさせてくれますな。

自分すら読めない文章になっていた所で、おやすみ。
こんなもの習慣にしてもなにがなにやら・・・
いや自分次第ですよ!ガンバリマショウ(棒)

2014年5月7日水曜日

てすと

さて、何を書くかというと何も書くことなんかないのだけども、そのへんも含めて文字にしていけたらと。

やっぱり思い出してみると、何かしらを文字にして頭の中を漂わせていた覚えがある。それは風呂に入り、ストレッチをいつもより少しだけ体重を加けてやっていた間にクリアになってしまったらしい。
なるほど心のつれづれにタイミングもタイピングも間に合わないようだ。これじゃ、そのまとめる気もない思考をぼんやりと可視化する試みも三日房まったなしかな。

というようなところで読み返してみれば、思案と言葉の剥離もすごいもので、三分前自分が何考えていたかは文字列からはまったく読み取れない。まあそうゆう経験ないからそんなものではあるのかな。いくらかブログを習慣付けしていけば、その距離も縮んだり伸びたりするでしょう。ただ、書かれていないものを読むなんてできないから、文と文の間、段落と段落の隙間、語彙と変換の怠惰、いろいろ気をつけましょうねっと思っても気を付け方とは何なのか、その具体性というか知識がないのだからどうしょうもなす。