年増をキッカケに瞑想を習慣にしていた三ヶ月があって、寝る前の15分程度、ベッドの上であぐらかいて、背筋伸ばして、一呼吸11秒くらいでゆっくり深呼吸して、できるだけボーっと。
当時は車の免許とって一年経たないくらい。
運転というものが、あまりにも難しく感じていて非常にストレスだった時期。注意散漫をどうにかしたいと思い、瞑想を試していた。効果は心理面でプラセボー、やらないよりはマシかも?程度。それで十分ありがたい。
実利感はとくにあれだったけど、適当にまとめサイトとかで見た、”無意識を体感する”的なことに惹かれしばらく続けていた。上記の通り3ヶ月しか続かなかったけど。
続かなくなっていった原因としては、足のしびれ。あぐら描いてんのに痺れる。この痺れが開始15分で限界を迎える。そうゆうわけで瞑想時間が15分が限度。ベッドの上だからというのもあったかもしれないが、お経の席の畳の上でもやっぱり15分程度でやばい。
まぁ、すっかり運転も超余裕()で、仕事も同業者の方から一人前として扱って頂いたりと、心の調子もよく、新車購入考えてたりと、欲望も元気になってきた。
が、欲望の昇華がギコチナイ。
欲望にもっと上手に寄り添ってあげたいけど、心身に染み付いた怠慢、抑圧、恐怖などの優先順位が高い。
買い物行きたいけど、ネットしたい。
ドライブしたいけど、ネットしたい。
引きこもっていても、心身と折り合いのついた欲望を満たせるインターネットスバラシィイイイ!!
というのも本音であることに間違いはないのだけど、社会性とか健康のためにも、失われた外向性を再構築していくためにも、理性をもっと強化したい。深く抑圧された欲望の身体に対する支配力をもうすこし多めに再分配してあげたい。
じゃあどうするのか?瞑想でしょ!!(内向的)
というわけで瞑想日記始めますん。
水平感覚たぶらかし
2014年8月9日土曜日
2014年7月5日土曜日
すっかり忘れてたなこのブログ。それだけ書き言葉に変換させれる様なことを考えてなかったってことだよね。
平穏。
だからといってこれを書くそれもないのだけど。
消費したコンテンツの主人公とか当事者になる妄想をたぶん昔からしてて、最近は声優のラジオとかにゲストとして出て
おしゃべりする妄想が流行り。ふだんはおしゃべりなんて全然好きじゃないのになんでそういう妄想するのか。たぶん、自分に都合よくおしゃべりが噛み合えばリアルでも楽しいのだろうね。もちろん現実はそうも行かないけど、歯車を噛み合うようにしていく、そのたどたどしくあくせくした感じに焦りながらもベクトルが伝わっていくことに嬉しくなる感じ覚えてる。けっこう粗野な、言葉と組み合わせしか持ち合わせていなかったけど。粗野な言動に割りと寛容な人は多いのだろうね。すっかり去勢されて無口な自分が今はいるけど、だれにそうされたわけでもなく、完全に出口を失った外向性を抱え込んだ時期の外向性反響音の騒音対策の副作用だった記憶。自分がうるさいから喋らなくなったわけだ。
gdgdしてる文字列に無教養を感じつつ、ふらっとしてたら社交不安障害を見つけ昔にぼんやり同情しつつ、「あれ、これ今もじゃね?」とか思いつつ、実装しなきゃいけない機能も直さなきゃいけないバグも多くあるけど、無粋に壊して、積み立てた自分を頼りにしてる。はず。解体しそこねた所沢山あるなー
読み返すと相変わらず、思考と書き言葉の距離がすごい。変換システム壊れてるなー。別物として扱うべきだね。書き言葉生成に処理能力使いすぎるからそうなるのかな。しかたないね。
2014年5月20日火曜日
酒の味
二十歳になってからすぐ飲みはじみたウイスキーを、未だにうまいと感じるわけでもないのに、毎日のように飲んでいる。
忘年会の席で、ビールっていつ頃からうまく感じるのかと聞いたことがある。その人は酒は味わうものではなく、楽しむものだと言った。人と人とでたのしく飲むものだと。
しかし、私がシングルモルトスコッチに手を出したのは、味わう酒だとおもったからだ。数多くの蒸留所ごとにボトリングされるスコッチは、その多様な環境ごとの個性豊かな、味や香りを選ぶことができる。
ふたを開けてみれば、たしかに豊かな香りを感じ、口に含めば、強いアルコールの刺激にかき消されてしまうまでのほんの少しの間に、微かな甘みとモルトを感じる。
ただ、これをうまいと言われてもピンとこない。
香りについては良さがわかる気がするが、味は・・・。
どうやって味とそれとが結びついたのかわからない比喩や、売り文句的誇張に、私の貧しい心は惹かれてしまったのだろう。どこにでも人はいる。酒を作り、売るのもまた人だ。孤独に楽しめる酒などないのだろう。あるとしても、それを楽しむには文化や人と、日常的に深く触れていて、内面からもそれらがあふれてくるような、そんな人が、すこし離れた所で飲むことによって感じることができるようなものでしかないのだろう。
心開く友人もいなければ、開く心もないような日々に飲む酒は、味けないが香り高い。
2014年5月18日日曜日
書くために書く
それすら、書けない。
何を気にしてるかというと、書いているうちに単語、いいまわし、リズムなんかが気になって、書き換える間に書こうと思っていたことと、まるでちがってくる。
何を書きたいかということを考えてから、始めないからというのも大きい。考えながら、その徒然を書いていきたいわけだけど、、、あー 思考ってわりと雑然としてるから、それを描写しても、ちゃんとごちゃごちゃしてる文になるのは当たり前だった。
それを繰り返していくと、いくらか形になっていくんでしょうな。その形に。
思考言語と視覚的な文字としての言語ではちがいがある。
思考というのは、とても自分的で、飛躍もイメージバインドもお手の物。自分に閉じがちで、共有するつもりもないから、それをそのまま文字にしても辞書とは剥離しがち。
文字はその逆。他人との通信プロトコルとしての役割が本質。
という訳でもないのが現実で、その思考言語だって、通信プロトコルを内に抱えたのが始まりだし、文字だって、共有目的で使われることばかりじゃない。
序破急、起承転結、論理的筋立て。
物語でもなければ、理論作りでもないただの文字列をそんなフォーマットでまとめなくてもいいし、仕様も知らないし。
徒然としてるようで散文的な。
句読点の半分は諦めがにじむ。
可逆的な文にあこがれるが、書き心地を優先するとこうなる。タイピングの遅延と語彙のなさからくるストレスは、恥をよけて進むように文字を仕向ける。
それもそれで、その形。ただ厨二病的な当時を思い出す。
そんな形。
2014年5月15日木曜日
三日坊主も丸坊主
続かないといえば、筋トレ、ストレッチ、英語学習、瞑想、読書などなど。そこにこれ。数えだせばキリがないのだけど、それは続いていることもそうなのだろう。じゃあ、なにが続いているのかといえば、注意散漫、足りない頭、日常。
継続は力なり、その連続性の中にそれを否定するそれ自身。
私の思考の歴史は浅い。外的ストレスに当てられ、それを解体するために始まった。
それの構成要素は、それを否定するものだった。
それが最初。
その否定の中身をひらけば、それとそれじゃないもの。
またそれを開けば。じゃあ、あてにならないよね。
空っぽいなと当時は思った。今思えば、上記の様に。
ようは覚えてない。
重要なのはストレスとやらは、ちゃんと解体され撤去されたこと。その思考廃棄物は心を劣悪な環境にしてしまった。それも2、3年で十分きれいになって、どうじに思考の必要性もなくなってしまったようで。
考え方を思い出して、今に適用してみてもどうもイマイチ。
まあ、当時の自分には新鮮だったのだろうけど、すっかり慣れて血肉になっているのだろう。
誤解しか生まない程度に言うと、ソシュール、ヴィドゲシュタイン、ニーチェ、釈迦、ラッセルの美味しい部分の思想体験をしていた感じ。あんだけ苦しんでひねり出したものを、先人たちはわざわざ他人一般に理解できるように推敲して本にまでしてくれているのだからすばらしいもので。教養の偉大さを感じさせてくれますな。
自分すら読めない文章になっていた所で、おやすみ。
こんなもの習慣にしてもなにがなにやら・・・
いや自分次第ですよ!ガンバリマショウ(棒)
継続は力なり、その連続性の中にそれを否定するそれ自身。
私の思考の歴史は浅い。外的ストレスに当てられ、それを解体するために始まった。
それの構成要素は、それを否定するものだった。
それが最初。
その否定の中身をひらけば、それとそれじゃないもの。
またそれを開けば。じゃあ、あてにならないよね。
空っぽいなと当時は思った。今思えば、上記の様に。
ようは覚えてない。
重要なのはストレスとやらは、ちゃんと解体され撤去されたこと。その思考廃棄物は心を劣悪な環境にしてしまった。それも2、3年で十分きれいになって、どうじに思考の必要性もなくなってしまったようで。
考え方を思い出して、今に適用してみてもどうもイマイチ。
まあ、当時の自分には新鮮だったのだろうけど、すっかり慣れて血肉になっているのだろう。
誤解しか生まない程度に言うと、ソシュール、ヴィドゲシュタイン、ニーチェ、釈迦、ラッセルの美味しい部分の思想体験をしていた感じ。あんだけ苦しんでひねり出したものを、先人たちはわざわざ他人一般に理解できるように推敲して本にまでしてくれているのだからすばらしいもので。教養の偉大さを感じさせてくれますな。
自分すら読めない文章になっていた所で、おやすみ。
こんなもの習慣にしてもなにがなにやら・・・
いや自分次第ですよ!ガンバリマショウ(棒)
2014年5月7日水曜日
てすと
さて、何を書くかというと何も書くことなんかないのだけども、そのへんも含めて文字にしていけたらと。
やっぱり思い出してみると、何かしらを文字にして頭の中を漂わせていた覚えがある。それは風呂に入り、ストレッチをいつもより少しだけ体重を加けてやっていた間にクリアになってしまったらしい。
なるほど心のつれづれにタイミングもタイピングも間に合わないようだ。これじゃ、そのまとめる気もない思考をぼんやりと可視化する試みも三日房まったなしかな。
というようなところで読み返してみれば、思案と言葉の剥離もすごいもので、三分前自分が何考えていたかは文字列からはまったく読み取れない。まあそうゆう経験ないからそんなものではあるのかな。いくらかブログを習慣付けしていけば、その距離も縮んだり伸びたりするでしょう。ただ、書かれていないものを読むなんてできないから、文と文の間、段落と段落の隙間、語彙と変換の怠惰、いろいろ気をつけましょうねっと思っても気を付け方とは何なのか、その具体性というか知識がないのだからどうしょうもなす。
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